ヒト
2023.01.16
2022年4月、突然届いたその訃報に衝撃と悲しみを受けた人も多いかと思います。北海道厚岸郡浜中町で酪農家になることを志し、2009年に新規就農を果たした松岡慶太さん。「安全の再構築」を掲げ、家族と音楽を愛し、人や牛たち、自然を大切にしてきた「オーガニックな酪農家」として、北国の暮らしを開拓し続けてきた人です。今回は2021年秋に、松岡牧場で話を伺った際に録音していたものを記事にした内容となります。今でも松岡さんの笑い声が聞こえてきそうで未だに信じられない気持ちですが、心からご冥福をお祈りいたします。
■初期衝動は、海外のカルチャーから
-2019年から広がりはじめた新型コロナウイルスの影響が続く一方で、ワーケーションや多拠点生活、移住の動きなどが増えてきています。2001年に浜中町へ移住した松岡さんですが、その生い立ちや今に至るまでの話を聞かせてください。
生まれは愛知県の豊橋市で、治安はあまり良いまちではなかったですね。印象に残っているのは高校生くらいに、いわゆるトヨタの出稼ぎなどで海外からたくさん人が来てて。それがバブルの崩壊でクビになる人が増えて、当時はチーマーと呼ばれる不良が多かったです。そんな中で育ってたから、まちに出れば必ずと言っていいほどケンカを売られて。本当に嫌だなって思ってました。
中学生くらいからバンド活動をはじめ、まわりの友人の影響もあってメタルとか聞いてましたね。でも、なんか合わなくて「こういう感じじゃないんだよな」とか思っていたら、西海岸のスケーターの文化が入ってきて「カッコいい!」と。そこから海外へ行ってみたいといった気持ちになっていきました。
高校卒業後、大学へ行くんですけど大学にはほとんど通わないでバンド活動をしてました。いわゆる「まちで遊ぶ」っていう過ごし方をしていた時代でしたね。そういうカルチャーがあったから「本場の西海岸を見たい」と思うようになっていったと思います。
ちょうど「バックパッカー」が流行りはじめたときでもあったし、高校卒業する前にバブルがはじけた影響で友人たちもほとんど就職できなくて。「フリーター」っていう言葉が新しく出てきたのもその頃で、なんか時代がグッと変わった感じが当時ありましたね。
-海外では、どのように滞在されてましたか?
1回目は21歳の時に3ヶ月ぐらい西海岸へ行きました。ビザがなかったから1回帰ってきて、学生ビザを取り直してから2回目はちゃんと大学へ行って。 1年間住めるっていうことで1年間住んで、1年後ビザを更新してからは面倒くさくなってしまって(笑)。結局、お金もなくなって大学も行かなくなっちゃったから、そのままオーバーステイになって友人にお金を借りて帰ってきました(笑)。
滞在中に思ったのは、まず根底に差別の心があるんだなって。それだけは確実に感じて帰ってきましたね。ただ、当時「スマッシング・パンプキンス」ってバンドで、世界的に売れた90年代を代表するバンドのギターに、「ジェームス・イハ」って日系人がいたり。「フィーダー」ってバンドに「タカ・ヒロセ」って日本人がいたり。「バンドにアジア人がいるって、ちょっとカッコいい」みたいな流れもあって。自分も現地のバンドに加わってライブやったりもして、楽しい思いもしましたね。
■旅ができない旅人、酪農家になる
-帰国後はどのような経緯で浜中町へ?
浜中町へ来たのは就農が目的です。2002年に子どもが生まれて、2009年まではずっと子どもたちと家族で過ごすことが多かったです。奥さんとは浜中で知り合って、本当に酪農を純粋にやりたい人で。両親や知り合いがいないなかで子育てもしてたから、結構ダメージ大きいところもありました。だからこの 10 年間は「子どもたちと家族で安定して暮らそう」って思ってて。 27歳 から 8 年間ぐらい酪農ヘルパーをやっていました。そのときは本当に安定していましたね。まあ、お金は少なかったですけど。
浜中町を選んだのも、ここの牧場や農協の評判が良かったからです。最初は根室にいて、農協の人にも「就農するなら浜中へ行った方がいいよ」って聞いて。実習先の牧場に入って、そこでヘルパーを紹介したいと言われて入った感じです。
そもそも北海道を選んだのはアメリカに行ったときもそうだったんですけど、旅をしたかったんですよ。でも、旅ができないんですよね。なんか俺、そこの場所に行くとずっと居たくなるんです。例えば、お気に入りのコーヒー屋とか、そのあと服を買うお店とか。スタンドはここでとか、行きつけや快適な場所にしていくことが好きだったから「2 週間で次のまちへ」とか、そういう旅ができなくて。
それで北海道も「旅の途中」だったんです。「とりあえず北海道は全部まわって、次は沖縄だな」みたいな感じでいましたけど、そのまま住んじゃったみたいな。やっぱりダメだった、「俺、旅できないわ」って(笑)。
■きっかけは、東日本大震災
-松岡牧場をはじめたときのビジョンや描いていたものを教えてください。
最初はもう「田舎で自分が好き勝手に暮らしていく場所をつくろう」ぐらいにしか思ってなかったですね。だから牧場らしい牧場のやり方っていうか、セオリー通りの牧場のやり方でやってて。でも、やっぱり 2011 年ですよね。東日本大震災。あのときは衝撃でしたね。そこで「これマジでこのままじゃダメだ」って思いました。
とりあえず「自分の作ったものを自分で売ろう」っていう気持ちが強く芽生えたんです。それまで「チーズつくりたい」といった気持ちはあったけど、「自分らや友人に売ったりとか、そのくらいつくれたらいいや」みたいな気持ちだったので。
あのときは本当に「日本中どの情報を信じていいの?」とか、「本当に放射線は危なくないの?」とか。「こっちは大丈夫、こっちは大丈夫じゃない」ってなっていて。だったら「自分のつくってる牛乳くらいは大丈夫」って言えるように「うちでつくったものは全部うちでつくっているから安心だよ」って言えるものをつくりたいと思っていましたね。
-そうした意味で納得できるものができたというのは?
いやぁ、納得できるものはまだできてないですね。そのときに最高のものはできてるけど、「最高更新中」みたいな感じじゃないですかね。納得いく仕事ということであれば「Wakka」という自然再生事業をやっていて。今年は 3 回ほど植樹をやったんですが、ようやく納得いく形でできたんです。
北海道科学大学の岡村俊邦さんという教授の「生態学的混播・混植法」という方法で、河畔林を再生する取り組みなんですけど。子どもたちの授業で植樹をしたり、ようやくここまで持ってこれたって感じですね。「Wakka」の取り組みに参加した子どもたちが地元を離れても、同窓会で植樹した木をまた見に戻って来るとかね。そうなったらいいなって思います。
■持続可能な酪農を目指して
-松岡さんが考える「持続可能性」について聞かせてください。
「安全の再構築」っていうのが、今の自分のなかのテーマです。あとは「牧場の持つ役割」というものですね。例えば「どこまで自分たちでやるか?」とか「原料は生産するものとしてどうか?」とか。あと、意外と牧場にいろんな人が来るんですけど「1 ヶ月半だけ働かせてください」とか。都会から来たそうした人たちって、俺らの日々の仕事のなかで心を癒されて帰るんですよね。
それって生産することだけじゃなくて「誰かを救うこと」にもつながっていて。なんとなく日々の生活のなかでリズムを取り戻して「よし、もうちょっと都会で頑張ろう」みたいな。そういう役割って結構あるんだなって最近気付いて。そうした面もちゃんとやっていきたいなと思っています。「どうやったら持続可能な牧場ができるか?」という考えを常に持っていたいですね。
例えば「ミツバチたちがいなくなるような環境を作らないようにする」とか、そういうところですよね。「どうやれば持続可能なことになるんだろう?」って考えながら常にやっているところが正直なところです。「農場の役割」というものは、もっと広義に考えないといけないと思っています。例えば食料安全保障といった、いわゆる「兵糧」という考え方もある。
もっとみんなで牧場がもつポテンシャルについて、いっぱい考えた方がいいと思うんですよね。その方が持続可能になると思います。ちゃんと牧場のやっていることが可視化されて、その情報を開示しても恥ずかしくないものでつくっているとか。そうした「安全の再構築」をやっていきたいですね。
そうした手掛かりの1つが「有機認証登録」かなと思っています。道東の有機認証グループでつながって、一緒に「オーガニックチーズとして出す 」っていうような。大きな目標としては、サードウェーブじゃないけど農協があって、それから分派した「ちえのわ事業協同組合」があって、さらにそこから分派したオーガニックだけの乳業会社。「オーガニック乳業を道東に立ち上げる」っていうのが最終的な目標だけど。ちゃんとオーガニックのことをやっている人たちの出口をつくっていきたいですね。
撮影・文 清水たつや
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